松本健一さんのコメント

 江村夏樹作品コンサート『夢』について このコンサートが終了して間もなく、印象の薄れないうちに自分の「日誌」にコンサートの感想のようなものを書いた。(日誌『耳をとりもどせ』 www4.diary.ne.jp/user/400148/ ) 
■2004/07/24 (土) 「夢」の終わり
江村夏樹作品コンサート『夢』が終了。
リハーサルを重ねたわりには自分のカンが鈍く、当日の通し練習の時にようやくやり方が見つかった、という感じだった。とはいえ、生来の鈍さというか、いつも直前にならないとわからないんだなあ。でも、チラシ(けっこう凝っている)に書いてある江村氏の文章、な〜んだ、ここに書いてあるじゃないか?!…ま、それだけではないのですが…発見が多かった。 今回は書いてあることのみをやる、といってもそんなに技術的には難しいことは要求されてはいない。特殊な奏法はフラッターとブレスノイズぐらいだし、パッセージの演奏の速さ等もすべて演奏者にゆだねられている。しかし、これが真綿で首を絞められるというか?油地獄というか、パッセージを演奏するたびに、うわー作為的!という落ち込みが待っている。 即興演奏だと(イイのか悪いのか知らんけど)あまりそういうことは起こらない。やはり書かれたものを演奏する時に起こる軋轢、これがすごく純粋に増幅されてる感じ。
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とはかいたものの、現在ではまた違った印象を持っている。というのは、「書かれたものを演奏する時に起こる軋轢」というように矮小化してしまっているようにいまでは思えるのだ。よく考えると即興演奏でも常にその危険と隣り合わせにある。いや、その隣り合わせにあるという感覚自体が表現の原動力になるのかもしれない。「メロディ」を演奏しその押し付けがましさにへきえきする時、「ノイズ」や「物体音」に活路を切り拓くことはよくあることだ。しかしそれも馴れてくると押し付けがましく意味をたっぷり含んだものとして立ちあらわれ、また楽音を新鮮に思ったり、さらに新しいノイズを合成したりする。常に打破していかねばならない状況は書こうが即興しようがそれほど変わらないようにも思える。 江村さんの思惑は、度重なるリハーサル時の討論でようやく私にわかるようなカタチで私に伝えられた。 とはいえそれも憶測の域を出ないのかもしれない。私が理解したのは、音がまったく脈絡ないカタチであらわれる時の音のあり方自体の自由さ、これに注目しよう、という方針である。それをある程度再現可能な、といってもまったく同じものはできないが、再現可能というのは一定時間その場所でそんな風な音のあり方をさせる、ことであるように思う。一般的な「曲」というよりは「仕様書」「設計図」というものに近い。
リハーサル中に書いた文章。
■2004/05/19 (水) リハーサル
ここ3日ほどリハーサルが続く。今日は江村夏樹氏の「夢」という作品の初リハーサルだった。用意されたCDの再生、男声、女声、筝、ヴァイオリンが2台、ピアノ、テナーサックス。前もって譜面を郵送していただいたのだが、1ページあたり1分で50枚。1枚の譜面には1小節にも満たないような楽譜の断片が散らばっていて、斜めになったり逆さまになったり、絵として面白い。それぞれの断片は誰が演奏するのかが指定されていて、その解釈とその1分のなかのどのタイミングで演奏するかは演奏者にゆだねられている。が、1分というのはけっこう長いのでこれでは相当サビシイというか不自然な静寂のなかの居心地の悪い緊張感を強いられるのではないか?という予想もしていたが見事に裏切られた。すごく面白くなりそうな気がする。これは是非見に来て下さい。7月23日金曜日午後7時開演、門前仲町の門天ホールです。で、男声というのは歌手ではなく俳優で、短い、あるいはある程度の長さを持ったテキストを朗読するのだが、やはりシロウトとは違いがある。もちろん巧いのだけど、上手下手ではない何か違いがあって、本当に声というのは面白いなあと思う。それぞれの1分のなかで声と楽器の音、効果音がランダムなタイミングで発音されるのだが、ある種の調和というか調和を越えた調和というか?なにかが醸し出されるところはまさにコンポジションといえる。タイミングはオプションとして、全くのランダムなタイミングが可能になっている。ツボはその断片の解釈であろう、と思われる。解釈したつもりで演奏しても演奏者の無意識がしっかり投影されている怖い部分もある。そのような混沌の結果、醸し出される「なにか」は意外なほど明瞭にとらえることができるものなんだけど今のところうまく言語化できない。だから演奏するのか。そりゃそうだけど。
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じつは第一回目のリハーサルのとき、とにかくこの譜面にそって音を出してみましょう、ということで一通り演奏したのだが、これが非常に美しかった。江村さんと音響を担当された須藤さん以外は初対面の方々。自分にとっての新鮮さ、演奏者全員にとっての(江村さんにとっても、おそらく)新鮮な状況でのとらわれのない探求。しかしどうしても回を重ねる毎にそのコンセプトそのものも、配置されるべきフレーズも記憶の中で陳腐化していく。じっさい、徐々に「作曲された曲」のような装いをしはじめる。もちろん、作曲されているのだけど、いかにも手慣れた風な容貌。しかし、あらゆる演奏はあたかもその場にもたらされたかのようなイリュージョンをまとうとき最上のモノになる、とすれば、こうした気苦労というのは今に始まったことじゃない。ジャズの演奏家がスタイルを真似することに血道をあげたり、あるいは否定したり折衷したり、様々なスタイルがうまれたが、ごく初期のシンプルななんでもありの演奏にも、いやむしろそのほうが、日々の即興的気分をコテコテに塗りこめた賞味期限当日限りの表現が宿った、と考える。 繰り返し愛唱されるべき歌などと比べどうしてこうも厳しいのか、と思ったりもするが、歌にもうたうたび変わらない部分と二度と再現できない部分があるし、一体どこが違うのか考えはじめるとつかみどころがない。とにかく今回のこの曲は、江村さんの合図で演奏にはいるとその音世界は私が好きな性質のモノである。それでいいじゃないか? そこで、習熟、とか進歩、という類の努力を一切やめて、ひたすらその自分の好きな音世界の一部として自足している…こういうありかたはできないものなのか?雪の結晶なんてほっといても同じものは無いのだ…。 追い詰められてそういうことを考えたのがもう本番直前の、会場での音出しの時だった。実に苦しまぎれ、作為にて作為を捨てるという不遜。
しかしそこでもうひとつの展開があった。演奏者数人と連れ立って向かいの中華料理屋で腹ごしらえしてお茶をのんでくつろぎ、本番に臨んだ。本番という一回性の場面においては、今まで心配したことなど実はとるに足らなかったのではないか、と思えるほどに、新鮮で、さりげなく、快適だった。もちろんこれは私が小さな悟りをちょこんと開いたからではなかろう。結局は日誌に書いたように「当日の通し練習の時にようやくやり方が見つかった」なんてことには遠く、直前にもわからず、やっててもわからないが、わかってもわからなくてもよかったことがよくわかった、なんてことはないでしょうけど、やはりあれだけの時間をかけてなにかが立ち上がってきたことには違いがないだろう。しかしそれが自分にとっては見えないカタチで集積されたのかもしれず、一面的ではあるけれども録音を聞いたり、今後ゆっくりと解析していくことにしよう。